自分に自信がなくなるとき




「苦労は買ってでもしろ」って言うけど、ホント? ---そんなことを言いたくなる。「まったく苦労がない」のは人間形成的に危ないけど、「ある程度」苦労をしてきたのだとしたら「もういいじゃん」って思うよ。

「苦労なし」と「苦労あり」があるとしたら「苦労なし」がいっぱいあるほうが、そりゃ「幸せ」だ。苦労というのは、自分(もしくは他者)の想定している事象に届いていないことに対して行う、背伸びと積み重ね。心情的には(途中でポジティブに変わることはあっても)最初はネガティブなものだ。ネガティブなものをポジティブに変えるには、精神的な強さと、ある意味「許す」という女神のような心が必要である。

しかもさよく言う「悲しさを体験すればするほど優しくなれる」ってね、ある程度まではそうなんだけど、底なしに優しくなりすぎるのも問題なんです。自分が裸で、傷だらけになっちゃうから。私は、大人というのはある一定までの優しさがあれば、そこに器用さと強さを兼ね備えたほうがいいんだ、って思う。
ここで「悲しさ」を「苦労」に置き換えても重なるところがあって。「苦労して良かった」と言えるのは、その苦労が実を結んだ場合、もしくは結果がどうであれ自分としてそういうふうに納得せざるを得なかったか、といういわば一部の場合だ。それ以外の一定数以上は、「苦労は苦労でつらい」「苦労のせいで云々」なんていうのが正直なところなのじゃないかな。。

「苦労」にはやっぱりネガティブな要素がつきまとう。だってその人が「苦労」ととらえた時点で、それは「苦」なのだから。


だからさ「苦労はないならないほーがいい」、そう思う。毎日ハッピーをあふれさせ積み上げていくほうが、いいに決まってるさね。

私、ちょっと自分に自信がなくなった。もともと自信のない内外のもろもろのことではなくて、もっと重大なこと。社会の一部で機能する人物として。そしてさらに「自分の判断」について。「つかまえることのできない自分」について。

ある一つのことに、久々に、泣いちゃった。

消えたいとまでは思わないけど、心の芯から、悲しい、って思う。
そして、これから「苦労」を選ぶべきなのか、回避してもいいんじゃないか、「そもそもそれは苦労なのか?」って葛藤も同時に。そして判断が難しい。できない。しづらい。「優先順位をつけなさい」って、わかってるんだけどできないときはどうしたらいいの?優先順位って人によっても、時期によっても違う。1年前の私ならどういう判断を下すんだろうか。

どうしてウマクイカナイノカナって空を見上げてうら…じゃなくて、希望。(と最後までことばを守ろうとする自分)「物事は自分の希望通りにいかない」ということをもっと実感する必要があるのかな。でもそれでも「じゃあ希望どおりになるように、それに近づくようにどうしたらいいのか」って考えるのが筋でしょ、って思うんだ。でもでも、それはもうやんないほうがいいのかも。