オレンジににじむ東京タワー





リリーさんの「東京タワー」はもう何も言う必要が無いくらい一般的な書籍となってしまった。
私はよく居る人のようにそれを読みながら自分を重ね、自分の母を重ね、そして東京を重ねて、かなり大量の涙を流しながら読んだ。


私は「ヤラレタ!」と思った。自分の底のほうに抱えていていつか排出したかった、「地方出身者」の「東京」と「地方の色濃い家族」というものに関する絶妙な表現を、されてしまったから。私は彼のように文章を公に発表する立場にも居ないしそれを求められても居ない。でも何故か、自分(地方出身者)の「東京」と「地方の色濃い家族」について、そしてそれを象徴する「東京タワー」という物体に対する感情を、いつか、何かの機会に書き記したいなあと思っていた。それをきちんと表現できているのはすごい。



そう、リリーさんのあれは、うまい。とても。


まず、東京という街は想像以上に地方出身者が多い。(これは周知の事実で私は上京する前から耳タコだったけれど、本当なんだと東京の実生活で実感した。)

ということは、それぞれに「イナカ」が存在する。日本の(とりあえずの)都会としての頂点:東京からすると、全て「イナカ」だ。そこ(の大部分)にはドラマに出てくるような洗練されたビルや施設、一部(でもかなり多いけど)のセレブーなんて呼ばれる人たちが闊歩するなんていう「日常」はない。
地方のスーパーに行けば地元で採れたキャベツが88円で売っているし、飲み屋といえばせいぜい養老の瀧(フランチャイズ)か焼き鳥屋か「スナックなおこ」というバーだ(全て想像)。多くが車を持っていて、90%国産車、軽自動車も多い。(都内の一等地駐車場なんてガイシャだらけだよね、あれ。)



話が脱線したけれど、そういう「地方人」には特に染みるつくりになっている。
最初は「東京」に戸惑いながらもそれになじんでゆき(もしくは、なじんだように錯覚し)「地方の自分」(家族)を、少し切り離してみてしまう。東京にいるときはどこか気を張っている。地方にいるときは信じられないくらい緩んでしまう。
まるで「東京人の私」と「地方人の私」という2つの人格があるかのようだ。私はこの小さな葛藤を何回かに分けて経験した。(なーんて言うとすごいコトみたい!)「どっちが本当のわたし?東京は違う?」という主に「東京ナイズされている自分」へ警鐘を鳴らしたりしていた。
でも、答えは「どっちもわたし」しか無いんだけど。



2つの人格ではなくて、「環境への順応の必要性」によって私のオートマチックな機能が知らず知らずのうちに「東京ナイズ」「してくれていた」のだと思うようになった。

そしていつの間にか、「東京より劣る」位置づけだった自分の「地方」が、とてつもなく愛しくなってきた。地方独特の「無い」状態の緩み、心地よさ。ひとりひとりのゆとりが生み出すのんびり感。温かさ。今では自分の「イナカ」がとても好きで、そこで生まれて良かったと思う。
そして未だ、そしてこれからもそこで生きていく家族(主に両親)をさらに愛しく思う。



私は東京タワーをとても儚いものだと思う。私がそれを目にするのは、たいてい、夜。電車から、自動車から。
東京タワーは、「いきなり」現れる。ビルの間から。そして「あ!綺麗!」と思った瞬間に、またビルの陰に隠れてしまう。とても、儚いな〜と思う。にじんだオレンジ色のグラデーションが目に飛び込んですぐに、パッと消えて暗闇となる。だから、「ずっと」「いつも」在るものなのに「儚い」ものに思える。それを、自分や、揺れる東京そのものに重ね合わせてしまうのかもしれない。



東京は、まとまりがない街だ。ジャンクで、混沌としていて、豊潤で、渇望していて、混乱していて、とにかく交じり合っている。そのまとまりのなさを、唯一東京タワーというものが集約している気がする。(なんて誰かもう既に書いていることなんだろうな)


引っ越した街の駅から自宅への帰り道、大きくは無いけれど東京タワーが見える。あのふもとには今誰か居るのだろうか、タワーを挟んであちら側はキラキラわいわいしているのだろうか、遅くまで働いている人がいるんだろうか。


私ははからずも「東京」に住む期間が長くなった。「一過性」のような場所であった東京が、自分が住みついていく場所になった。数年前にこんなこと思いもしなかったな、と、暗い中ににじむオレンジからできるだけ目をそらさないようにするんだよなぁーと。