ま、いっかの抱負





会社で「新年の抱負を」と促されたときに、
「うーん…特にないなあ」と思った。



そして
「ナンセンスだなぁ」と思ってしまった。







そんな私は
あるとするならば 「 健康第一 」。



これだけです。




でもでも、
会社でそんなことを言うのもアレだなぁ、
できるだけ
仕事でがんばってきまっせ!的なことを
言ったほうがいいだろうなあ、
上司がいるし、
ってことで、しばし考えた。



この、「考えた」と
いうことに自分でビックリした。




今までなら
年越しを感慨深く迎え、
新年は何らかの抱負を言える位は
あったのになー。




それが無いことが、いいのか悪いのか…?







思い返してみる。

私はココ最近、
なぜか「ここ2年間」くらいのことしか
思い出せない。



        どうしてだろ。





この2年間くらい、
なさそうでいて、
色んな変化があった。



大波はなく小波ゆらりゆらり
そして
そんな中で環境が変化していった。





それが「いつの間にか」というところに
意外に、
驚く。





これまでは、
変化
と言うのは
基本的に自分の行動力と意志、
という能動的なものによって
起こると思っていた。




自分で何とかしなければ誰も
何ともしてくれない、
自分で動かなければ
何も動かない、と。




でも
それからしばらくして、
自分では何ともならない他者のチカラに
因る部分も
あるなぁーと思った。




「他者のチカラ」
というものが、やっかい。





これは自分の努力や気持ちでは
どうにもならないから。





「他者」というのは「人」だけではなくて
他者が組み合わさって形成されている
「世界」のようなものだ。






前は、この「世界」を動かそうと
踏ん張っていた気がする。




これは
対 ゆみちゃん(仮名)
であったり、
対 ゆうくん(仮名)
であったり、
対 自分の会社、
対 行動
対 自分が生きているというただ
それだけのこと
であったり、
ミクロからマクロな「世界」
全て。






でもいつの間にか、
「ま、いっか」
と思うようになった。





投げやりな意味ではなく、
できるだけ
「ま、いっか」に
自分をもっていくことが
私にとってはいいんだろうなと
感じた。





どうしようもないものはどうしようもないし、
変わらないものは変わらないし、
できないものはできないし、
分からないものは分からない。




それは
生きていく中で
ある程度、見て・聞いて・読んで・考えての
経験の上でのこと。
(これを20年後の自分が読んだら笑いそうだけど。
 未熟だねーなんて)




「無知」なときは
「知らない」ことはどんどん潰していき、
「知る」ようになりたい、
という気持ちがあった。





でも
知っていくと、
知らなくてもいいことも多い、
むしろ知らないほうがいいこともある
ということを感じた。





知らないが故にかもし出すことの出来る
無邪気さがあるのだ。





その無邪気さは、
獲得しようとしてできるものではない。




そして失ったあとに
気づくものだ。



(ああ、
 漠然としてるな)





その一部の無邪気さを
失った自分を
元気付けるために
「ではその代わりに得たものは?」
と思いをめぐらせる。





それは、
(以前と比較しての)ゆとり、
(以前と比較しての)広さ
ということではないかな
と自意識過剰。





「であるべき」
「であるはず」
は、
ほとんど
存在しない。
(生活や人生において)





「〜でも、いい」
「〜も、アリ」

そう思うことにしている。






そうすると
前に比べて
何かに腹を立てたり、
不満に思ったりする回数も
減ったような気が。






いいことなのかも。







そういえば
自分の考え方の癖は
分かってて。



それに基づいたことへの
解決策を求めるのではなく、
ただ「聞いて欲しい」場合
それを最初に
言っておくことは大事だな、と
思うのです。





実は
それが
できていないし、
聞く側としては
「またそれ?前回納得したはずなのに
 また元に戻ってるやん!」
と思いますから。




そして
それを分かってて指摘して
ほしいんだよね。




本当は
一人で自己完結できればいいのだけど
ほら、
しゃべりたいことも
あるので。





と、
よく言われている
男性脳と女性脳の
違いにも
思いを馳せる・・・・