細々





集合がまさか16時台だと思っていなかった。おいしいちゃんこ鍋屋さんは地元客でにぎわっていた。

話す度に、どうしてこの子たちはこんなに賢くて思慮深いんだろうと再認識。そういう人たちに巡り会わせてくれた元職場に感謝。

あの頃はお金ばっか入ってきて、私たちは世の中の庶民の贅沢はあらかた経験できるよね、なんて言ってた。内的な変化ができる人なら、ずっと居れたし居たほうが有利ではあって。ただ、もっと冒険したかったんだろうなぁ。冒険して、挫折したり、立ち上がったりそんなことを繰り返しながらいつの間にか変化していく、していった自分。いつでもそれを自分に必要なことだと受け入れるべきだし、そういうもんなんだろう。





「人は、」と一般論で語るとき、それは自身のことが多い。人は、日々劇的なことなんてないと思いながら生きていて。でもクリームパスタにするかボンゴレにするか、今日の集まりに行くか行かないか、ポテトはつけるかつけないか、ItsOKにどう答えるか、そんな数々の選択が網目のようにからまって、何か奇跡を呼んだりする。劇的な。その奇跡を願うのはムダであって、ムダじゃない。ムダじゃない。
お風呂の中で本を読んでいたことや、ベッドの中で雨の音を聞いていたことや、おまじないのように同じ言葉を唱えていたこと、夜の自分の時間が昇華されてこの冬の今立っている私を構成しているのだろう。最高の自分になんて永遠になれないけれど、毎日自分なんだから仕方ない。で、しかもそれで十分に最高なんだろう。こんなくらいで。


今日はしみじみとしてしまう雨が降っていて、そしてふと、同じ時間を共有できないってことに慣れないといけないって思う。