考え方が違うのはしゃーないこと





人の考え方って本当に人それぞれなんだな、と思う。



すごく重なる部分があるなと思う人でも、何かの話の
時に、お互い理解し合えない。


これは結構びっくりだ。


ある話題になると
誰にでも優しくて穏やかな人が、とたんに顔を
曇らせ何かを憎んでいる目をして、話す。


ほとんど不一致なんてないと思っていた人が、
自分には理解できないことをする。

などなど…




でも私はそれを、ネガティブにはとらえない。
(とらえないように心がける)



違うのは当たり前。
ここからスタートすれば、「同じ」だってことに
逆にありがたさを感じる。


「違う」とき、
理解し合えなくても、「理解しようとしたり(意志)」
「その背景を聞いたり(違いの原因)」して、その
違う考え方をいったん受け止めてみる。


全否定なんてできない。


大事な人の場合、特に。


だって、じゃあ私は「普通」「スタンダード」で
完全かと言ったら絶対にそうではないからだ。


私が「普通」だと思っていることを、「おかしい」
と思う人だって絶対いるからだ。



何が正しい、なんて言えないからだ。




「大事」だと思うのには心の奥のほうで、何かを
共有しているからだし、その共有していることのほうが
大切だと思うからだ。



「考え方が違う」ときに落胆してしまうこともあるだろう。

「もう何を言ってもだめだ」「分かり合えないから無理だ」
と思ってしまうこともあるだろう。



でも、そこからが勝負だと思う。

そこで、もう踏み込まないか、もしくは踏み込むか。



踏み込むということには少しの勇気と、少しの気力を
伴う。

相手が「閉じて」いると、こちらが「開こう」としても
かなり難しい。

逆にどちらも「閉じている」状態だと
ため息だけで何も生まれない。



でも、あきらめない。



それは、とても大事だと思うからだ。




例えば違う人間同士のぶつかり合いによくあること。
大事だからこそ、ぶつかることがある。



友達、会社の人、そのほか…であれば、私はある程度の
ところで踏み込むのを止めるだろう。




それは心地よいところでつながっていればいいから
である。




けれども、そうではない関係の場合ー例えば恋愛ー
自分がこれから先も自分そのもので、相手そのもので
つながっていきたい関係の場合。



「どうでもいいや」なんてことはない(少なくとも
私の場合は)。


「どうでもいい」なんて言ってしまえる
のは、その人のことを大事に思えてないからではないか
と思う。




私は、こう言われた。


「むなしくなるよ。今までの僕たちの日々は何だった 
 のかなぁ、って。今までは無駄だったってことかなぁ
って。」



私は、そう言われて「考え方が違う」と思った。


私はこれまでの日々をなんとも思っていないわけではない。
とてもステキでありがたいと思っていた。

ただ、それ以上に「今」、「この先」を考えたかったのだ。


だって、過去は過去。「過去楽しかったからそれで十分
でしょう」なんて思わないよね。


過去が今につながって、さらに、「いい未来」につながれば
いいなと思っているからこそ、先を考えたい。


とにかくその人と私の考え方は、少し違った。


でもそれは不快なことでも何でもない。



私はーーと思った。それを伝えた。
でもその人はそうは思わなかった。


「どう思ってそう言うんだろう?」と私は興味が
ある。

「ねえ、アナタはなぜそんなことを言うのかなあ
責めているわけではなくて、ただ、知りたいだけだ」



知りたい。知りたい。
 

とことんまで話し合って、やっぱり駄目だったら
それはもう、やめるべきだ。

でも話し合わないで、向き合わないで放り投げて
しまうのは、いやだなぁと思う。


私は大事な人を大事にしたいだけで。
でもそれは人を傷つけてしまうこともあるわけで。



スカっとしたことを書けないのは、そのせいだ。



でも、1月末まではなんとか楽しく楽しく、を
心がけて歩いていくんだ。