おとぎ話





(55%フィクションです)





その人のうちの天井ばかり見ていた。古い民家の二階。年期が入った茶色の木製。

お香はチャンダン香。

かすかなタバコの香りとチャンダンが鼻をかすめながら、私は天井を見ていた。

その人の帰りを待っていたのか、別々の部屋にいたのか、私だけ先に目が覚めてしまったのかは分からない。

ただ、私はあの天井を思い出す。



ゆるい、ゆるい、ただ、揺るぎない芯をもって生きている人だった。
雑踏を泳ぐようにうまく(私から見れば)生きている人だった。


いつの間にか一緒にいるようになって、いつの間にか離れた。
あやふやな空気の中に浮かんでいた現象だった。


やたらと私の発言を「あなたおもしろいねー」と言った。誰とも共有できない観点をその人とは共有できた。

知り合って一週間で「海外に行かない?」とメールしてくるような人だった。ただ、彼が探していたのは「同士」なのだ。

彼はそのとき転職で悩んでいた。大企業からベンチャーへ。パンフレットを見せてくれたけど、私には判断つかなかった。ただ、精一杯の思うところは伝えた。
結局、その人は会社を辞めてベンチャーに転職した。

高円寺の道を歩きながら「いま辞めてきた」という電話を受けて、私はキャーキャー言った。お祝いしなきゃ。

落ち合ってケーキを食べた。



一部分しか共有できない間柄だった。どんなに近づいて触れても。多分私のほうが早く気づいていた。だけど見ないようにしていた。今は見るときじゃないと思った。



きっかけは自然に訪れた。
私の友人を巻き込んだゴタゴタが起きた。私は、そのときの彼の無責任で思いやりのない対応にがく然とした。
真っ向からやりあった。納得いくまで話した。


最後の日。その人は、たい焼きを持ってウチに来た。

じっくり話した。そして、もうだめだなと思った。


帰り際こう言われた。
「もう絶対に連絡しないで。もし街で会っても無視して」
私は、驚いた。悲しいとともに。

自然とそうなることはあっても、別れ際に釘をさされるだなんて。

もう私のことなんて大嫌いで声も聞きたくないし、顔も見たくないのだろうか…そんな悲しい別れ方って…
どういう気持ちで言ったんだろう。今でも分からない。


それからその人が転職したベンチャーは数年で社員も10倍に増え、急成長した。その人は(たぶん)望んでいた仕事に就けた。

パソコン画面を通して久しぶりに見るその人は髪が短く、ひげヅラになっていた。白いシャツが、その人らしかった。
変わったようで、変わっていなかった。

私たちの「一瞬」は何だったんだろう。風のように過ぎ去ったけれど、確かにあった時間と事実。



その人が唯一取り乱した、あの、驚くべき話。あのときも私は、天井を見ていた。天井の木目を目でなぞりながら、悲しくて愛すべきその話を聞いた。

あの話を、どうして私にしたんだろう。うずくまって、小さくなって。