恋愛




恋愛とはとても甘美なものだ。

特に
それは片思い、そしてお互いの気持ちが分かってこれから「知って」いくという段階において。





「甘美」と言ってしまうとなんだかとてもこっ恥ずかしいのだけど、それでもやっぱり甘美という言葉が合う。



例えばその「誰か」の存在があるだけで、いつもの日常が少しだけ輝いていたり、何かをする原動力につながったりすることはないだろうか(私は、ある)。

その「誰か」と過ごす時間を思い出すだけで、これまた心の中にポワンと温かいものが発生するようなことはないんだろうか(私は、ある)。

その「誰か」と過ごしているときの自分は何だかとても特別で。大人でもあり子供でもある。人間でもあり動物でもある(変な意味じゃなくて)。
頭で考えずに心で「存在」しているので、とても素直で清々しい自分であるような気がする。



……とまぁ、これは「うまくいっている」ときのことであって。暗雲が立ち込めるときもある。そもそも他人同士の2人なのだから、「「違う」と感じることだってある。分かり合えないことすら分かり合えなくて、言葉を尽くしても伝わらなくて、伝わってこなくてどうしようもないドツボにはまる場合だってある。「すれ違い」。
そんなときはとても心が苦しく、涙すら出なかったりもする。


でもそれはその「誰か」を想っているに他ならない。どうでも良ければ心さえ揺れないだろう。
関わろうとしているから、「好き」という感情があるからこそ「何とかしたい」と思い、苦しいのだろう。




私は「落ち着いた」関係のときの「感じ」はすぐ思い出せるのだけど、「これから知っていく」という段階のことはあまり思い出せない。−−どうしてだろう。




落ち着いているとき。

それはお互いの愛情(って書くと重いなー、そこまでの意味はないです)を確信していて、そして信じていることが根底にある。それぞれの日常のペースが分かっている。好きなもの・嫌いなものを知っている。もちろん「どんな人なのか」という根底の部分も。細かなところで言うとメールや電話の頻度もだいたい分かっている。
…ということで「誰か」が「自分の日常」いわば「自分の一部」になってしまっている状態。

これを「空気」と呼ぶのかもしれない。
(ちなみに、それに付きまとうのが「倦怠期」というネガティブな言葉。私は倦怠期というものを感じたことがないのでよく分からないけれど)



このとき勿体無いのは「空気」であるがゆえに、その「大切さ」を感じなくなる、もしくはそれが薄れてしまうことだ。これは誰が悪いわけでもなく自然の摂理なのかもしれない。

「失ってその大切さに気づく」とはよく言ったもので多くの人が「誰か」の存在がなくなって初めて、自分にとっていかに大きな存在だったか、支えであったかを実感し痛みと孤独感に苛まれる。



ただし、この感情は「真剣に」恋愛をしていたときに限られるのだろう。この痛みを感じないのであればそれは「真剣」ではなかったか、もしくはその人自身が恋愛にはさほど重きを置かないタイプの人だからなのかもしれない(これは私からすると残念だなぁと思う)。


つらつら書いてしまったけれど、恋愛には痛みがある。でも痛みがあるからこそ何にも変えがたい歓びがある。
その逆もしかり。





んーーー恋愛したいですねえ。