幸せは主観的なもの




昨今、あることについて
「普通は〜だ」とか「みんな〜だ」ということを当てはめていた。


「普通は」「そんなことしない」
「みんな」「やめると思う」


だから、自分を止めようとしていた。

「〜したい」と思っても、誰かを傷つけることや、まだ
始まっていないことへの恐怖感?から、その気持ちを
打ち消そうとしていた。


でも、今日、


「どうして見えもしない『普通の人々』の平均値を
取らないといけないの?」


固定観念に縛られているだけじゃないの?」


「私のことは、私にしか分からないし」


「私の将来も、誰かの将来も、誰にも分からない」


「ならばとにかく『〜したい』にしたがってみれば
いいじゃん」


「それでやっぱり『普通』にしておけば良かったと
思うかもしれない」



「でもやらないで後悔するより、やって後悔した
ほうがいいじゃん」



「傷ついても、失敗しても、何とかやっていこう」



と思った。


それを協力してくれようとしている人に伝えた。


誰も、自分以外のひとの幸せが何なのか、分からない。

分かるはずはない。


だって自分でも分からなかったりするもの。


ならば、その人それぞれの幸せだと思うことを
やらせてあげたらいい。


私も、私が思う『幸せ』に向かって、とりあえず
その『光』に向かって少しずつ歩いてみればいい。


誰かを傷つけるかもしれない。


中傷されるかもしれない。



でも、それでも自分が『幸せだ』って思えるのであれば
それに罪悪感を感じる必要はない。


うーん、そこまではいかないか。


罪悪感を感じたとしても、それをきちんととらえた上で
でも他の人に何か言われたとしても説明できれば、いい。


胸を張って。



自分の幸せは、自分にしか分からない。


与えられるものではなく、自分で作っていくものだ。



ね。